「介護」という仮面を脱いで

先日は、中野区の消防団の大会がありました。その中で自分は選手としてポンプを扱う立場にありました。
 このために、今月は毎週、夜中に2、3回練習があったのです。ですから、とても、とても過酷な一ヶ月でした。
 そして、大会の当日。なんと、チームは団体で3位。私自身は、個人賞として金メダルまでもらってしまったのです!自分でも、今までの練習の中で一番、ミスが少なく、流れもスムーズにできました。案外、上がらずに冷静な自分でやれたことが一番の原因だったと思ってます。

 なぜ、こんなことを書くのかといいますと、介護支援専門員(ケアマネ)でない自分の姿があるんだということを提示してみたいと考えたからです。というのも、普段、私自身は介護支援専門員という仕事をしていますから、その立場での活動や発言が多い。関係者からもそのような目でばかり見られます。でも、一皮向けば、私自身も一市民であり、介護支援専門員以外の顔があります。そういう「別の顔」の意味を考えたくて、あえて今回は、こんなことを書いてます。

 そして、そのように人の一面しか見ないのは私達にもあります。普段、介護をされているご家族に対してです。「○○さんの介護をされている○○さん」とか介護者「○○さん」というように、あたかも、その方が「介護」という一面しか持っていないかのように私達は介護者の方々に接する傾向があります。

 これは、もちろん、私達の仕事だけに限りません。子どもの保育園の先生は親のことを「○○パパさん」「○○ママさん」と呼びます。そこにあるのは「親業」をしている人格しかありません。子どもと同じようにだらしなかったり、甘えん坊な側面を親も持っているのですが、そういう側面を「○○パパさん」「○○ママさん」という呼び方は消してしまう力を持っています。こちらも「先生」と呼び、その先生に、先生以外の「別の顔」があることを意識しません。

 そこには、それぞれの「役」があります。お互いに役を演じることで、互いの領域を犯しませんから、その役割の中で演技ができている間は両者の関係は安定します。お互いに安心してつきあえます。

 でも、ときに、人は、そういう役を演じることが困難になるときがあります。親が「親」の役割を遂行するときが難しいときがあります。子どもが「子」の役割を遂行することが難しいときがあります。
 それは、家庭の危機であるかもしれません。家庭崩壊などはそのような役割が壊れるときに訪れるのではないかと考えます。
 
 そして、そのような「役割」が比較的、崩れやすいのが「介護者」だと私は思ってます。演じることが難しいのが「介護者」というものではないかと思ってます。なぜなら、「介護者」は、なりたくてなった人が多くないと思うからです。

その点が「親業」と大きくことなります。「親」には、なりたくて子作りをする人もいます。そういう人は、喜んで「親」役を演じていくのではないでしょうか。

 ところが、「介護者」には、なりたくてなった人は、あまりいらっしゃらない。もちろん、「要介護者」になりたくてなられた高齢者もいらっしゃらない。みな健康で自分の時間を持って自由に暮らしたい。要介護状態になって人の手を借りたくない。「介護者」役をしないですむなら、あえてやりたいとは思わない。でも、身内に介護の必要な方がいらっしゃる。だから、やるしかない。

 なかには、「やりたくない」という気持ちの強い方がいらっしゃっても何も不自然なことではありません。「介護者」という役を辞めたい人がいらっしゃっても、珍しいことではありません。「介護者」という仮面を脱ぎたい家族がいらっしゃっても、それは、普通のことかもしれません。
 そんな「役」や仮面をぬぐいたいにも関わらず、無理して仮面をかぶっている方がよほど危険です。介護うつや、介護虐待の危険性はより高まるのではないかと思います。

 だから、介護においては、あえて「介護者○○さん」や「介護職○○さん」「介護支援専門員・本間さん」なんて、役割意識はない方がいいのではないかと思ったりするのです。やりたくもない役を無理して演じなくていいのだと思うのです。「良き介護者」を演じず、仮面を脱いで、本音を出してもいいのではないでしょうか。

 役割なんて、むしろ脱ぎ捨、できることだけやって、できないことは「助けて」といえばいい。でも、そういう当たり前のことが、案外、世間体や自分自身へのこだわりなどから難しい場合もあります。

介護保険制度というものも、介護のごく一部しかお手伝いできない制度ですから、役に立たないとお感じになることもあるかと思います。それでも、「無意味な仮面」を脱ぐための、その気持ちによりそい話に耳を傾ける姿勢はいつも持っていたいと思っています。

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