認知症と胃ろうについて

私事ですが、以前、祖母が介護施設に入所しておりました。90才を過ぎてボケも相当進み、意識もない状態でした。そして、そこでの入所中に自分でごはんを食べられなくなり、入院をきっかけに胃ろうを造りました。

「胃ろう」というのは、胃にあける穴のことです。その穴に管を通し、そこから栄養分を流すようにします。
かつては口や鼻の穴から管を通した栄養摂取方法が多くありました。しかし、その方法では管を抜いてしまうヒトが多くいたり、さまざまな要因から現在はあまり行われていません。それに変わり、先の胃ろうを造ることが簡単にできるようになり、主流派になってきました。

今ほど医療の発達していなかった昔であれば、私の祖母もとっくに亡くなっていたことでしょう。祖母が生きていてくれて嬉しいと思う反面、「簡単には死なせてもらえないんだな」と思う自分がいたのも正直な気持ちでした。

若い人や意識のある人に対する延命治療ならまだしも、認知症など本人の意識のしっかりされてない方の場合、どこまで延命治療や医療を受けるかという判断を第三者や家族が行わなければなりません。

医療技術の発展は私たちに選択肢を多く与えてくれるようになった反面、私たちはその中から責任を持って選択しなければならない義務も負うようになりました。

先の祖母の例で言いますと、基本的に医療機関の使命は命を守ることです。ですから、胃ろうにより生きる望みがあれば、それを提示して当然です。また、患者、家族に対しきちんと説明と同意を得る必要がありますから、「胃ろうを造らない場合は、あと何日で亡くなってしまうと思います」ともいうこともあるでしょう。

そのとき、「あと、何日で死んでしまう」と言われれば、普通の人間の感覚としては「胃ろうを造ってください」と言わざるをえないでしょう。それをしないということは「殺してください」と言っているようなものだからです。

しかし、その延命治療は文字通り「延命」の治療です。かつてのように祖母が笑ったり、話したりするような回復治療ではありません。目の前には植物人間のようになってしまった祖母がうつろな目でたたずんでいます。

 その現実の前で、私は先のような感想を抱いてしまったわけです。胃ろうを造らなければ私はやはり後悔していたでしょう。「なぜ、何もしてあげなかったのか」と。一方で、延命処置をしてもらったら、それに対する不満を抱いている自分がいました。なんと私とは浅はかな人間なのでしょうか。



 同様の問題は日々、私が担当として関わる利用者さまの中でも起こります。事は一人ひとり、家族それぞれによっても異なる問題です。その問題に当たる度、私の中では「何が正解なのだろう」という試行錯誤が渦巻いていました。

そんな折り、医師の観点から重度認知症の方への胃ろう造設の延命治療に深く切り込んだ本に出会いました。「『平穏死』のすすめ」(講談社)という本で、筆者は世田谷区の特別養護老人ホームの石飛幸三医師です。
石飛医師は、長く外科医として働かれた後、世田谷区の特養にお勤めになられ、そこでの体験を元に胃ろうをめぐる論考をまとめられています。

 曰く、日本の刑法では延命治療をしないことは「治療の差し控え」として、保護責任者遺棄致死罪に当たる可能性があると。それゆえ、「今病院の多くの医師は「もう寿命ですから胃痩を付けるのはやめましょう」とはなかなか言えない」。

しかし、本音は「老衰のため体に限界が来て、徐々に食が細くなって、ついに眠って静かに最期を迎えようとしているのを、どうして揺り起こして、無理矢理食べなさいと口を開けさせることができましょうか。現場を知っている者からみると考えられないことです。もう寿命が来たのです。静かに眠らせてあげましょう。これが自然というものです。これが平穏死です。」といいます。

 これまで医療者が切り込まなかった日本人の死生観に深く切り込んだ作品といえるかもしれません。これまでにも同様の主張は市民・介護従事者の側よりありましたが医師自らが表明したものは初めて読みました。
  本間の担当しております、ご希望の方には、お貸しいたします。お気軽にご連絡ください。

そして、いずれにしましても、最後の選択肢は私たち一人ひとりの市民の手に委ねられています。
いかに自分以外の人の生死と向き合っていくか。選択肢の数はどんどん増えますが、最後に選ぶのは私たち市民サイドです。その判断と責任をどのように背負うか。うやむやなままでは済ませてもらえない時代が来ているようです。

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