2013/09/24

こんにちはレイです

こんにちはレイです。

南相馬の風を少しでも皆さんに感じて頂きたい。そんな気持ちで書いています。

今 南相馬で私達が生きて居られるのは…義援金、物資などが日本全国、全世界から届いたからです。

有り難うございました。

私の願いは、普通の当たり前の生活がしたい!それだけです。

先週 本間さんがこの南相馬に来て下さいました。

その時に「私はボランティアとか何かをしなきゃ行けないと思っていたが何をしていいのか分からなかった」とおっしゃていましたね。

…ここに来て頂ければ良いのです。私達と同じ空気を吸って、同じ場所で食事をして、同じ場所を歩いて…それだけで良いのです。南相馬の風を感じると思います。

私にメルマガで何か?傷付けてしまったと、心を痛めていらっしゃた様子でした。

私は当時 極限の生活まで追い込まれ何に怒りをぶつけたらいいのか分かりませんでした。そんな時に東京からのメールです。

その時 東京は節電で電車が動くとか、動かないとかでゴタゴタしていた時でした。東京に送る為の原発が止まっているから当たり前と思っていました。

東京と南相馬では温度差が有り過ぎます。

この頃から私は壊れて行きました。

携帯にワンストップ市民何でも相談を道の駅で開催されると言うので行き相談しました。

私は住む家が有り警戒区域では無かったので物資の援助が途絶え お金も無く 食べられなかったので

県の相談員の方に今の生活情態を説明し

「これが日本国憲法の保証する最低限の生活なのでしょうか?
私はそれ以下の生活です。」

自分が情けなくなり 涙が出ると同時に怒鳴っていました。

でも何とか物資を戴ける書類を渡されました。

その後 1か月が過ぎた頃 やっと義援金が入った時に 待ちに待った南相馬のスーパーが開いても 私の所から遠い30k越えの鹿島区まで行かなければなりませんでした。

店の表で店員さんに「どんな商品が有ったら良いですか?」と聞かれ、壊れている私は「どうして原町区を開けてくれないのですか?ここの店は地域密着じゃ無いのですか?」

店長さんが「避難準備区域では開けれません。」

大声で怒鳴りつけていました。

その後も余震が何度も有り 生きているのか死んでいるのか分かりませんでした。

血圧が今でも下がりません。あまり怒り過ぎたと反省しています。

…私の方こそ自分の事ばかりで傷付けてしまった様で申し訳ありませんでした。

オリンピック開催が決定し ますます東京とは温度差があると2年半経っても感じます。仕方ない事ですが。

南相馬には、まだ復興という風は吹いていません。

今回 本間さんのホームページをお借りしまして南相馬の風を感じて頂ければと思い、壊れたレイが頑張ってメールを皆さんにお届けします。

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