2014/04/23

福島・南相馬では生きていくためのお手伝いができます。

拝啓 
本間様 今回は自分のことを書かせていただきます。

私は高校卒業後、保育の道を進むため上京しましたが、左足首に違和感。それが激しい痛みとなり、だんだんと歩行が困難となり、夢は消滅し、自宅へ戻ることになります。

手、膝、そして朝のこわばりでリウマチと診断され、私は夢が消滅しただけでなく、一生治らないという不治の病を宣告され、人生も途絶えたように思い、毎日、泣き、そして死のうと思い、海へ行ったり、ナイフを手にしていました。

どうしても考えただけで、行動に移すことは出来ませんでした。

それから数年後

私の出した結論は「死のうと思っても私には死ねない!」
一度は死んだのだから、これからはどんな事があっても私は生きていけると思いました。この結論を出すまでに何年もかかり、多くの人の手を借りて生きてきました。

それから数年、不治の病と闘い、何とか治り?今の主人と出会い、結婚し、子供を授かりました。

子育てしながら、介護の仕事は大変でした。
何度“クビ”になったことか。
でも、今、思えば、このためにいろいろとあったのかもしれません。
訪問介護、ケアマネ、施設、デイ…いろいろと経験しました。
子供がいるから満足は仕事ができないと当時は思っておりましたが、子供のお陰で私はいろいろと見ることができました。
今の仮設の仕事は最初はイヤでイヤでどうして私がこんな仕事をしなきゃいけないの!と毎日、思い震災をうらんでいました。
今、思えば介護だけの仕事では味わうことができなかった人との出会いが沢山、ありました。

一緒に働くことが多かった市役所職員。それから、今、ここに私はいるだけで素晴らしい人達がきてくださいます。環境省、ボランティアの方々。
身なりの汚いおっさん(失礼)誰?と思ってますと大学の先生だったり…
私の財産となりました。もちろん、本間様との出会いも私の大切な財産です。昨年、お会いしました時、台風で私の体調が悪く、あまり会話ができませんでした。手も痛み、握手が出来なかった、一つの理由です。(私の病気は日和見なのです)大変、申し訳ありませんでした。

ところで、本間様が南相馬にいらした時にお会いしました柴田さん、覚えていらっしゃいますか?デイサービスを開所します、と話してた彼女です。
今まで柴田さんから一緒に働かないかと声を掛けていただきました。
その後も何度も働くようにと誘われましたが“yes”の言葉を私は出しませんでした。
やっと来月からお世話になる事を決めました。
一歩前におそるおそる足を出してみました。

…最初、全然、働く気はなく、お断りすると「ボランティアに来て、小物作りを教えてほしい」とのこと。 
小物作り(手芸)を教えられる事に魅力を感じた私は嬉しかったです。
「こんな小物作りで喜んでいただけるなんて!」
居場所のなかった私はそれだけで嬉しい!!

そこには、あの津波の被害にあった施設(ヨッシーランド)に当時、デイで利用していた311日に初めて知らない所に泊まった、というおばあさんも利用しています。
当時は不安だったのでしょう
今まで普通に話していたのに急に「帰る!」と不穏になります。
「思い出すのかなあ」と柴田さんは話します。
同じ時間を共に生きて来た、私には分かります。
国道6号線を車で走っていると新地町のあの風景、そして311日、フラッシュバックして胸が締め付けられます。
…これが共感なのでしょうか?

私はまだ立ち上がれない人達に寄り添いたいと思いました。仮設では味わえない気持ちが仕事とはいえ、多々、味わうことができます。
お年寄りが元気になると私も元気になれます。
子供のいない寂しさや震災のショックで現実が見えているようで見えていませんでした。
今、ようやく何をやらなければならないのかが見えてきたように思います。
南相馬では生きていくためのお手伝いができます。

私の流した涙はもう乾きました。再発のリウマチと共に歩んでいきます。自分で決めた道です。私の手足はまだ動いています。あと何年動けるだろうと思えたら行動できました。私を必要としている人が南相馬にはたくさんいます。こういうのはミッションワークと言うのですか、本間様、教えてください。

レイ

 

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