軽度者を想定した話…
「夫は介護認定、受けているが、どこにも出たがらない。デイにでも行ってほしいけど、拒否する。知らない人ばかりの所へ入っていくのが苦手。一日中テレビ見てるだけ。このままじゃ、ますます、弱って、ぼけちゃうんじゃないかと心配…」という妻からの相談は多い。そして、その夫をデイに連れ出すのは難しい。でも、やりようがないわけではないように思う。
では、なぜ、夫が外に出たがらないかを考えよう。
答えは簡単。自分に自信がないから。社会へ出て、他人とコミュニケーションをとり、居場所を見つける自信がないから。
んで、なんで、その自信がないか。
一つには、仕事以外の社会的コミュニケーション方法を獲得できなかったからかもしれない。そこは、個人差あるところ。
でも、何よりも、引きこもりになっている要因を作ってるのは、要支援とか要介護っていう、心身の状態が悪化して、自信を失っているから。かつてあった、男としての戦闘能力が低下しているから。
低下していることを自覚しているから。
この点、女性と違い、男は強さとか、固有の戦闘能力を唯一の拠り所として生きてきた人が多い。その戦闘能力が欠如していることは、それだけで十分に、存在価値をおとしめる。
しかも、一家の主が介護状態になったら、どうしても、奥さんは「がんばっちゃう」。倒れた夫の分まで、がんばんなきゃ!とがんばって、どんどん、力強くなる。戦闘能力を上げていく。妻だけでない。子供がいる場合は、子供も頑張る。戦闘能力を上げていく。
そんなふうに、自分の周囲ががんばっている姿は、一時的には、本人からは頼もしい。
でも、長期的にはどうか。
「あ~。俺って、ホント、ダメだな~。役立たずだな~」と、どんどん自分の非力を痛感し、パワーレスになる。無力を痛感する。戦闘能力の低下を自覚する一方。
周囲ががんばれば頑張るほど、反比例して、本人は自信喪失する。
すると…ますます、自分に対する自信がなくなり、外へ出かけるのがコワくなる。こんな役立たずの俺が、外で他人と対等にやりとりできるわけない…と不安が先立ち、とじこもりに拍車をかける。
そんなふうにイジイジしている夫を見た妻は、ますます、「私が負けたら、我が家はオシマイだ!」と奮起してがんばる。強くなる。妻は強くなれば、なるほど、イジイジした夫を頼りなく思う。「しっかりしてよ!」とイライラする。悪循環の支援関係・・・
で、思うんだ。
そんな自信喪失がちな夫に少しでも、しっかりしてもらうには、無理やりにでも、妻が夫に頼ることが大事なんだ、と。
何十年も夫婦やってると、夫の良い面に目を向けることは難しいかもしれない。
でも、男ってのは、やはり、頼りにされたり、泣きつかれたら、「がんばるしかねーか」となる傾向が高い。妻が倒れたら、「なにくそ!」と奮起する男は多いはず。それで、何か動いてくれたら、ささいなことでも感謝する。もちあげる。そうして、男の自信に小さな火をつける。
なんなら、仮病、使ってでもいい。周囲の人間はヘトヘトで、限界寸前だってことを伝えていく。
妻だって、ホントは、夫が介護状態になり、気張ってやっているんだから、心のどこかで気持ちが弱っており、それを吐き出したい深層心理はあるはず。
その弱音を我慢するから、「夫への不満」に変わる。「私はこんなにがんばっているのに、一日中、テレビばっかり見ている」と不満ばかりがたまる。
高見に立って「このままじゃ、寝たきりになっちゃうわよ」なんて言ったら、火に油。
そんなことは分かってる。分かってることを、先回りして、他人事雇用に言うから、余計に腹が立つ。
ひねくれる。すねる。
でも、そこも無理せず、夫に弱音を吐く。夫に頼る。夫の力を信じる。そうやって、小さな、小さな自信回復と人間関係、信頼関係の回復を試みる。もちろん、時間はかかるし、個人差もあるはず。(受容の過程理論は割愛)
でも、そうやって、自分ってものに対する自信が少し回復してきたら、「外」の人と話す自信もついてくる。外に出かける不安もなくなってくる。その延長線上に「デイ」なども見えてくるんじゃないかな。
これは、被災地支援などにも同じことが言える、支援理論。
なぜなら、被災者をいつまでも被災者扱いしつづけ、すべてを手取り足取り、援助しつづけるのは、返って被災者の自立心を損ね、自尊心の低下を招くことは、既にマスコミなどでも報じられている。
大切なのは、被災下においても、いかに、できることを見出し、新たな居場所や役割を再建していくか。その「気づき」を当事者と支援者の双方で模索していく必要がある。
リハビリや改善、回復への意欲…それは、多分、「自分のため」よりも「誰かのため」という目標の方が訴求効果があるように思う。
その意味で支援者、周囲の人間は、「当事者が、どうすれば自信を回復できるか」という観点からのアプローチが重要なような気がする。(ほんま)
すると…ますます、自分に対する自信がなくなり、外へ出かけるのがコワくなる。こんな役立たずの俺が、外で他人と対等にやりとりできるわけない…と不安が先立ち、とじこもりに拍車をかける。
そんなふうにイジイジしている夫を見た妻は、ますます、「私が負けたら、我が家はオシマイだ!」と奮起してがんばる。強くなる。妻は強くなれば、なるほど、イジイジした夫を頼りなく思う。「しっかりしてよ!」とイライラする。悪循環の支援関係・・・
で、思うんだ。
そんな自信喪失がちな夫に少しでも、しっかりしてもらうには、無理やりにでも、妻が夫に頼ることが大事なんだ、と。
何十年も夫婦やってると、夫の良い面に目を向けることは難しいかもしれない。
でも、男ってのは、やはり、頼りにされたり、泣きつかれたら、「がんばるしかねーか」となる傾向が高い。妻が倒れたら、「なにくそ!」と奮起する男は多いはず。それで、何か動いてくれたら、ささいなことでも感謝する。もちあげる。そうして、男の自信に小さな火をつける。
なんなら、仮病、使ってでもいい。周囲の人間はヘトヘトで、限界寸前だってことを伝えていく。
妻だって、ホントは、夫が介護状態になり、気張ってやっているんだから、心のどこかで気持ちが弱っており、それを吐き出したい深層心理はあるはず。
その弱音を我慢するから、「夫への不満」に変わる。「私はこんなにがんばっているのに、一日中、テレビばっかり見ている」と不満ばかりがたまる。
高見に立って「このままじゃ、寝たきりになっちゃうわよ」なんて言ったら、火に油。
そんなことは分かってる。分かってることを、先回りして、他人事雇用に言うから、余計に腹が立つ。
ひねくれる。すねる。
でも、そこも無理せず、夫に弱音を吐く。夫に頼る。夫の力を信じる。そうやって、小さな、小さな自信回復と人間関係、信頼関係の回復を試みる。もちろん、時間はかかるし、個人差もあるはず。(受容の過程理論は割愛)
でも、そうやって、自分ってものに対する自信が少し回復してきたら、「外」の人と話す自信もついてくる。外に出かける不安もなくなってくる。その延長線上に「デイ」なども見えてくるんじゃないかな。
これは、被災地支援などにも同じことが言える、支援理論。
なぜなら、被災者をいつまでも被災者扱いしつづけ、すべてを手取り足取り、援助しつづけるのは、返って被災者の自立心を損ね、自尊心の低下を招くことは、既にマスコミなどでも報じられている。
大切なのは、被災下においても、いかに、できることを見出し、新たな居場所や役割を再建していくか。その「気づき」を当事者と支援者の双方で模索していく必要がある。
リハビリや改善、回復への意欲…それは、多分、「自分のため」よりも「誰かのため」という目標の方が訴求効果があるように思う。
その意味で支援者、周囲の人間は、「当事者が、どうすれば自信を回復できるか」という観点からのアプローチが重要なような気がする。(ほんま)