2012/08/08
真に社会的に開かれた介護を
家族のあり方と介護の社会化の実現について、それから、ケアワークのあり方と介護の社会化のあり方はダイレクトにつながっている。
最近、少し関係のある文章を書いたので、少し手を入れたものを以下に掲載させていただく。
私がそもそも介護分野に関わり始めたのは特別養護老人ホームでのケアワーカーとしてだ。
まだ介護保険が始まる前のことで、勤務先の施設はかなり地域的にもオープンな運営をしていた。
しかし、こと介護現場の実態についてはなかなか外部の方と情報共有やコミュニケーションを行いづらい面があった。
その理由はいくつかある。
事が入居されている老人のプライバシーに関わることでもあるだけに第三者に気安く話しづらいことが一つ。
また、介護はたったひとりの職員が行うのではなくチームで当たるため、総合的かつ客観的に観察することが難しいことが一つ。
介護の対象範囲は食事、排泄、入浴のみならず同じ部屋の住人との人間関係や職員同士の人間関係など多様なつながりが影響し合っている部分が多く、問題を分析的に考察することが難しいことが一つ。
その他、第三者に対して介護現場のことを手短にシンプルに伝えるということは非常に難しい要素がいくつもあった。
だから入居老人の家族がたまに訪れてもうまくコミュニケーションが取れない事態が生じていた。
折角、家族の来訪があったから話したいという気持ちはケアワーカーにもあるのだが、「業務が多忙で十分な時間が持てない」と思うと言葉を飲み込んでしまう自分がいた。
一方、家族は家族でケアワーカーが忙しく歩きまわっていると声を掛けるのもためらうだろうし、下手に首を突っ込むと返って迷惑になるかもしれない。
「介護のことはすべて施設にお任せしよう」という気持ちが生じてきて当然だろう。
更に、老人を預けた家族は元々、自分の生活や自分の子供の生活がある。
仮に家族が施設へ訪問することで老人が少しでも元気になるのであれば、訪問する甲斐もあるかもしれない。
しかし、80、90代の要介護老人はまず、そういうことはありえない。
日に日に、悪くなっていく一方。
家族の名前や顔すら覚えていないことだって珍しくない。
家族にしてみれば会いにいくことも辛く感じられても仕方ない。
職員に無理難題を言って、退去なんて言われたくない。
そこから施設への足が遠くなるご家族も少なくないだろう。
そうなると家族からも見放された老人を施設内の介護従事者だけで看ることになる。
あっという間に介護の丸なげの一丁上がりである。
もちろん、家族の顔すら忘れるような老人は職員の顔も名前も覚えられない。
植物状態まで認知症が進むとあらゆる反応が難しくなり「ありがとう」も言えない。
そんな老人に対して毎日、介護職は食事の介助、下の世話、入浴の世話をしなければならない。
疲れたときだった。
私はそんな毎日が続く中で、こんな気持ちを抱いたことがあった。
「何ら社会的な貢献もせず、家族からさえも見放された、この老人の存在や老人の「介護」に一体、どういう社会的な意味があるのだろう」と。
介護労働が待遇面で評価されていたり、社会的な名声や感謝を得るなどしていれば、まだ価値を見いだせていたのかもしれない。
でも、現実はそうじゃない。
決してよくない待遇や労働環境で、時に社会的に蔑(さげす)みの目で見られることすらあるのが今の介護労働だ。
笑っちゃうのは、ケアワークに就いた当初、「この仕事をすれば、沢山『ありがとう』と言ってもらえ、感謝されるだろう」と思っていたことだ。
ところが蓋を開ければ、そんな言葉は滅多に聞くことはない。
良くて年に数回程度だったか。
日常生活上の世話って毎日のことだから、ありがたみが薄くなる側面があるのだろうか。
相手が重度の認知症だからケアされている自覚がないからだろうか。
幸い職員間の仲がよかったから、なんとか自分の精神をコントロールしながらツナの上を渡れていた。
でも、もしも、そのまま介護職を続けていれば私も虐待の加害者になっていたかもしれないと思う自分がいる。
今も虐待のニュースなどを見ると他人事とは思えない自分がいる。
そして、そのような状況の背景にあったのが介護特有の「閉塞状況」などであったと感じている。
しかも、介護保険以後、その閉塞感は従来より加速しているように思えて仕方ない。
ヘタをすれば家族は「介護の社会化」なんて皮相なキャッチフレーズでもって親族間のドロドロまでケア従事者に預けようとする時さえある。
ケア従事者も「カネ」をめぐる安っぽい茶番劇と知りつつも、その仕組まれた舞台に乗るかしない。
でも、その仕組まれたシナリオどおりに茶番を演じ続けることがヤバイことであることは少し考えればわかるはず。
そんな安っぽい制度、システムのためにケアの仕事に就いたんじゃないはず。
それを打開し、真に社会的に開かれた介護を行えない限り、虐待なんてなくなりっこない。
丁度、イジメの問題と一緒。
「臭いもの」に蓋をしようとしても、隠蔽してようとしても「臭いもの」はなくなるわけがない。 「臭いもの」の前で立ち止まり、直視し、自らの手で、その「臭いもの」の実体を理解しようという気構えがなければ。(本間)
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