2012/11/20
新様式
家族の人間関係、本人の性格の偏りや人格、生活歴や経済力、地域性などその他の膨大な背景要因は一切無視。
そして、その分類項目を元に膨大なデータを集計し、統計分析をして、読んでみるとなんのことはない。「軽度者は独居が多い」とか「重度者は同居者が多い」とか当たり前の結論を導き出している。
そして、この報告書を見ると、聞きなれないある一つの単語が多いことに気付く。
それは「改善可能性」という言葉である。
改善の可能性があるかないか、にすごくこだわりをもっており、改善の可能性があるのに、それに対応したサービスを組み込んでいないことを問題視していることがすごく感じられる。
「改善可能性があるのであれば、そうしたサービスを組み込まないのはケシカラン」ときっとこの報告書作成者は言いたいのだろう。
なんだか医師の診断に対する処置や処方のようなものにケアプランをしたいらしい。
「そんなもの(サービス)はいりません」と在宅の老人がどれだけ高い確率でいうのかを知らないから、こうした優等生的なキレイゴトしか発想できないのだろう。
せめて1年間、365日、雨の日も、雪の日も、休みの日も、祝日も祭日も、ゴミ屋敷や糞尿のかおりにまみれながら、利用者の罵声や無気力につきあいながら、どれほど現場が泥沼のように、地に足が着かないものであるのかを知っている人に仕切ってほしい。
なんだか、竹ヤリ持たされて「なせばなる!鬼畜米英!」と無謀な闘いを強いられているような映像とダブって仕方がない。上官は安全でぬくぬくとした作戦会議室でうまいもん食っているだけで。
話がずれた。
報告書の突っ込みどころの極めつけは最後部に新しいケアプラン様式の見本があり、そこのいくつかの事例がフィクションで書かれている。
これがまた、見事に絵空事のような事例の列挙である。
なかでも認知症のケースのピックアップがすごい。
呆れてものもいえないのは、事例6(P115)だ。
これは分類上、もっともボリュームの多い「中重度・認知症・家族同伴」のケースだ。
どんなケースかというと94才の老婆を長女が隣の家の次女の手を借りながら一人で介護しているわけだ。
要介護度は3。かなり重介護に入る。
その最大の課題にはこう書かれている。「今までのように娘と一緒に自宅で生活を続けたい」と。
実際の在宅のリアリティーを知っていれば、こんな絵空事はあまり出てこない。
まず、ここには娘の意向が書かれていない。
娘が内心「そろそろ施設へ預けたい」と思っている例などゴマンとある。
さらに「最後までトイレでしたい」という課題を挙げ、そのためにポータブルトイレを利用している。
ここにも娘の意向がない。
そもそも、本人が93才ということは娘だって、65~75才前後だろう。
娘達の健康状態やその家族の関係だって、いろんな状況があってもおかしくない。
でも、それらの背景も一切、無視。
ただ、母の自立だけを願っている娘二人。
なんだか、本人の自立に向けてとても健全な自立心がある利用者・家族なのだ。
「中途半端に歩けるようになったら、夜間に起こされる家族の身にもなってほしい」
「せっかく、歩けなくなって夜間のトイレ介助にも起こされないで済むようになったのに、なんで今更、リハビリなんかさせるの?! あんたら夜間に家に来て介護してくれるの?!」
こうした本音が家族や介護者には多くある。
でも、大ぴらに言える本音じゃない。
だから表には出てこない。
机上で考えている人達には絶対にわからない現場の空気。
本当に家で介護されている家族や老人との人間関係まで見ていないものにしかわからない現場。
リハビリ意欲や改善意欲に熱心な利用者はもちろん、それを切望する家族など私はほとんど会ったことがない。
だって、80才、90才のおじいさん、おばあさんだもの。
リハビリ意欲まんまんの80才、90才って異様だし、逆に家族から嫌われるでしょ(笑)
そりゃ、もちろん、中にはそんなレアなケースもある。
が、しかしだ。
そのレアケースのためだけに全体をチェンジしていくことがどれほど無駄なコストになることだろう。
報告書作成者は一度でも93才程度の要介護状態の老人と接したことがあるのだろうか。
その心身の状況をリアルに感じたことがあるのだろうか。
その介護者の苦悩や不安をリアルに感じたことがあるのだろうか。
ふと、脳裏にこんな言葉が浮かんだ。
「どこまで続くぬかるみぞ」。