先日、認知症の方へのケア技術として話題のユマニチュードがNHKで放映された。
関係書籍が大ヒットしているらしい。
そのキャッチコピーは「魔法? 奇跡? いえ「技術」です。」
ある意味、専門家にとっては扇情的なフレーズである。
そこで、私も勉強しようかと思い、書店に立ち寄り、ペラペラとページをめくった。
結論から言うと、その場で本を書棚に戻し、購読をやめた。
その中身は、例えば、以下のようなものである。
・利用者と接する時に、上から下へ見下ろすと、利用者が支配されているという感情を、患者に引き起こすために、視線を低く合わせたり、認知症の場合視野が狭くなっているために、正面から話しかける
・清拭をするにも、ろくに声掛けもせず黙々とすると、自分の存在が否定されていると、感じてしまうために、穏やかに話をする
・体を起こすとき、手首をつかむと、相手に恐怖感を与え、自分で動こうという気持ちを、妨げてしまうため、つかむのではなく、本人の動こうとする意思を生かして、下から支える
なんのことはない、当たり前のことが論じられている、ということは誰にでも分かると思う。
ツイッター上でも同様のツイートが多数、見かけられる。
では、そんな当たり前と思われることが、これほど大々的に取り上げられるのかということだ。
その答えは、それだけ「当たり前」のことが実践されていない現場が多い、ということにつきる。
そして、超現場的な本音としては、以下のツイートに尽きると考える。
フランス式ケアのユマニチュードとイギリスの認知症医療がすばらしいって礼賛したって、あれを日本中の現行の制度にさらに高齢者医療介護の現場にくまなく上乗せしたいと思ったら、来月から健康保険料と介護保険料が5倍くらいに値上げされても足りないと思いますけど、それでいいんですかね?
— Feed (@m0370) 2014, 7月 20
一方で、ユマニチュードブームの現象を少し、丁寧に見ると、そのブームは主に看護師の間で起こっていることが分かる。(介護関係者からは「医療現場は遅れている」といった辛辣なコメントもやはりツイッター上では目立っている。)
この点、ユマニチュードを売り込みたい関係者は、消費者を十把一絡げにし、大々的に売りたかったのかもしれないが、その商法はむしろマイナスに働いてのではないかと思っている。
というのもユマニチュードの販売先は中身を見れば、「介護」職ではなく「看護」職である。
多くの介護現場で行なっている認知症ケアは、もっと格段に先を進んでいるため、何の感慨も抱かない人の方が多いだろう。
感慨を抱かないどころか、普段の(介護は看護より下に見られている)といったルサンチマン(怨恨、憎悪、嫉妬)があるために、「看護職の行う認知症ケア」などへのバッシングにすら発展してしまっている現実もある。
周回遅れのランナーに「こんなに前を走っている」と吹聴されているようにも見えなくもない。
◆
しかし、ここで観方を変えて、私が病棟で働く看護師であったら、やはりユマニチュードを絶賛するだろうと思う。
ご存知のように病院というのは、「疾患」に対して医師が医行為を行うことで報酬を得るシステムである。
つまり、(認知症は完全なる病気なのか、という議論もすっとばし)認知症という疾患に対し、病院が行えることは、現時点では薬を処方するくらいしかできない。
入院病棟などへ入れば、その傾向はさらに増し、老人を金属的で無機的な部屋に閉じ込め、その人らしさや、生活、なじみの人間関係を剥奪(はくだつ)した上で、ただただ薬を処方するくらしかできない。
その環境では、老人はあっという間に廃人のようになってしまう。
それでも、社会に受け皿がない、という社会的なニーズから、そうした病院が存在するのも事実である。そして、そこで毎日、毎日、看護をしている看護職がいるのも事実である。
当然、医療の報酬体系は医行為を行なってなんぼの世界。
看護師が、老人の話し相手や生きがいづくりをした所で、何の報酬にもならないし、医師や同僚看護師から白眼視されるのがオチだ。
だから、そこで働く従事者は「仕事」と割り切り、(感情労働としての)感情をすり減らさらないように、心にバリアを張り、仮面をまとって、たんたんと仕事をするようになる方が普通の心理だろうと思う。
薬漬けで話しかけても、反応がないような老人に対しては、おのずと、そのケアは機械的に、人形でも相手にするかのように、事務的な清拭や排泄ケア、栄養摂取(食事ではない)が行われるようになっても不思議ではない。
それでも、やはり看護師も人間である。心の中ではずっと、わだかまりを持っていたのではないか。医師や医療そのものに、一言言いたかったのではないか。
「私達、看護師の専門性は何なのですか?」と。
そこへ、一定の根拠、エビデンスを持って薬(=医師)に対抗する、有効な手段として「ユマニチュードがありますよ」と現れた。
それは、普段の仕事から看護師としてのやりがいをなくし、無力感にさいなまれていた人にとっては、やはり大きな衝撃として受け入れられたのではないだろうか。(つまり、換言すれば、ユマニチュードブームとは看護師による医療(薬漬け)批判ともいえるのかもしれない)
◆
なお、冒頭で示したキャッチコピー「魔法? 奇跡? いえ「技術」です。」を見た時、反射的に違和感を感じた。
このコピーは「魔法」ではない、と表現することによって、「魔法のようだ」と言っている。しかし、介護にそうした魔法のようなものがあるはずがないと私は思っている。(「ない」からこそ、そこに大衆は食いつくのが分かりきっている商法なのだが)
そして、そういえば、以前にも(魔法のような、とまでは言わなかったが)革新的な介護技術として、古武術介護が一世を風靡した。
古武術介護の売り込み方も、「大変な介護が簡単、楽になる!」といったような、どこか魔法を思わせるようなものがあった。
やはり、それも大衆の心理をとらえ、ヒットしたが、みのもんたの番組などに出演し、完全に消費対象にされ、今、ほとんど聞かなくなってしまった。
あれはあれで、部分的には有用な部分もあり、業界できちんと体系的な技術・財産として蓄積されればいいのに、もったいないことだと思っている。
そして、最近はNHKがこの手の認知症ケアに対して「ためしてガッテン」などのような解決バラエティ番組的なアプローチを時々、見せるということだ。
ガンや難病などに対して、安易に解決バラエティ的なノリで番組を作らないと思うが、なぜかNHKは認知症に対して、そうしたアプローチをする傾向があると感じている。
と、同時に、同じ認知症ケアといっても、まったく異なるものなのに、それらを見極めずに捉えているとすれば、そのコンテンツ製作者(という大衆)つまり世間・社会の認知症に対する認識というのも、その程度のものなのだろう。
認知症対応については、もっと進んでいる「介護」の方が、ここまで取り沙汰されないのは、やはり現場からの代弁や発信、PRがまだまだ少ないからなのかもしれない。
そんなこんなで、ユマニチュードも単なる消費対象として一過性ブームとして終わるのももったいないなあ、と思っている。
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