あの言葉、実は日本社会と自立を考える上で、すごく関係のある言葉なんです。
理由は後回しにするとして、そもそも「自立」とは何か。
厚生労働省はやたらと「自立支援」をうたいますが、寝たきりで植物状態の人にとっての自立とはどういうことなんでしょうか。
結構、考えると難しい問題なような気がします。
ただ、自立については、比較的、明解な定義を厚労省はしてくれています。こんな感じに。
「自立」とは、「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」の意味であるが、福祉分野では、人権意識の高まりやノーマライゼーションの思想の普及を背景として、「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」、「障害を持っていてもその能力を活用して社会活動に参加すること」の意味としても用いられている。
上記の定義について、前半の「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」は主に障害福祉や貧困問題などを照準にしています。
介護が必要な老人の自立の定義について、しっくり来るのは後半の「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」という定義の箇所でしょうか。
でも、これ、体に障害があるが、頭はしっかりしているとか、判断力はある方などを照準にしています。「寝たきりで植物状態のような自己決定ができない方にとっての自立とは何?」という問いは解消されません。
認知症の方も同様の問題を持ってます。彼らも現在の「客観的な自分」と「主観的な自分」が大きくかけ離れていることが多いために、合理的な決定を下せないことが多い。自分に不利益な判断をしてしまいかねない。それでも、本人の主張を無下にすることもためらわれるから、周囲の人たちは戸惑うことになる。「この人にとって、本当に必要な事は何だろうか…」と。
つまり、自立の大前提となるはずの「自己決定」が要介護老人の場合は、うまくできないことが非常に多い。そこが理解力や判断力の低下した人の自立支援の難しさの特徴としてある。多くの要介護の老人や知的障害の方などがこれに該当します。
もっとも知的障害の場合は、保護者が本人の代弁をして、権利を擁護する場合が多い。それが老人の場合は、あまりなされていない所にも問題を大きくする要因があります。
だから、ケアマネジャーは研修なんかで、よく「リアルニーズ」とか「ディマンド」などと称して、本当に必要なことを見極めなさいと教わるわけですね。抽象的で分かりにくい話が多いですが。(この問題は介護に限らず、認知症老人に対する治療判断など医療をめぐる問題にも及んでいますね、胃ろうの問題など)
でも、ここで冷静に考えてみてください。自己決定が自立支援の上では、非常に重要なわけですが、私たちは、普段から、それほど自己決定に慣れ親しんだ社会に生活しているでしょうか?
そこで、冒頭の「とりあえずビール」のセリフの出番です。このセリフには、他にどんな言葉が省略されていると思いますか? 私、省略をせずに、正しく文書にすると、こんな風になると思うのです。
「飲み会の場で、いくらお金を払っていると言えども、自分だけメニュー選びに時間を費やしていたら乾杯が遅くなって、みんなに迷惑かけちゃうし、めいめいが勝手なものを注文していたら店員さんにも負担になっちゃうから、とりあえずビールを注文します!」と。
どうですか。私たちの社会は自腹で金を払い、好き勝手に飲み食いする権利があるような場面でさえ、自己決定を避ける慣習が浸透している社会なのです。「店員さん」にさえ気を使って決定をしていたりする。自分の考えや意向だけを前面に出して、判断や決定をすることをよしとみなさない社会なのです。
では、そんな「自己決定」が苦手な私たちはどのようにして、物事の判断や決定をしているか。そうですね。さっきの「とりあえずビール」の例でも分かるとおり、「その場の和」を持って、自分の決定とすることがもっとも多い社会ですよね。まさに「和を以て貴しとなす」の社会。
だから、老人も「家か施設か」を親族から問い詰められても、「家がエエ」などという本音や意向を滅多に出さない。「あんたがエエという方でエエわ」とか「あんたの勧めてくれる施設でエエよ」という決定を下すことになる。
それについて三好春樹氏は「自己決定」ではなく「共同決定」と述べ、この現象を指摘されています。介護の現場では老人と(信頼関係のある)介護職が一緒に判断をしているじゃないか、ということですね。
私は、そこに、さらに、「協調決定」という概念も追加したいと思います。本当は施設になど行きたくないのに、周囲に迷惑をかけまいと、周囲に協調して行う場合の決定スタイルのことです。あと、周囲の強引な圧力に押されて、同調圧力に負けてしまう形での決定スタイルとして「同調決定」というスタイルもあるでしょう。そんな純粋な自己決定とは程遠い、判断方法を採用している日本社会においては、西欧的な自己決定を前提とした「自立」の概念そのものが成立しないと考えるわけです。
ま、いずれにせよ、日本社会では西欧的な自己決定はほとんどなされていない事は確か。そういう風土です。だから、がん告知なども本人だけでなく、むしろ、そのキーパーソンたる親族などになされたり、治療判断も委ねられることが多い。植物状態の方へのケアのあり方なども、本人に代わって親族への説明・同意が重要になってくるということですよね。
じゃあ、なんで、そんな日本社会に会わない自己決定なんぞを、しきりに厚労省は繰り返すのか。多分、明治維新より続く、いや、遣唐使の時代から続く、海外のやり方を輸入して採用する、日本のやり方ですよね。
そして、そのような自己決定や自立という概念の前提には「私」という個が確立した西洋文明を拠り所にして、輸入されたものだと思われます。いわゆる近代的自我というやつでしょうか。(しかし、その近代的自我、「私」という概念は、しっくりこなかったから、夏目漱石さんはロンドンに行ったものの、ノイローゼになったのではありませんでしたっけ?)それは、やはり「とりあえずビール」と言っている社会であるうちは、ただしい自己決定と、それに基づく自立や自立支援は、成立しないだろうなあと考えるわけです。
(ちなみに、この近代的自我や個体としての人体を他と切り離して概念化する所から、近代法や近代医学も始まっていると思います。すると、そこでも、同様の問題群は発生するのは当然だと思われるわけです。ちょっと、最後は観念的になりすぎましたね)