【訪問記】福島カセツの声紀行(聴こう)


取材の依頼


 平成25年9月、福島第一原子力発電所から30キロ圏内にある福島県南相馬市に一泊二日で行ってきた。

主宰するメールマガジン「セルフケア」読者の元ケアマネ・レイさんからの手紙がきっかけだった。

私はメルマガとホームページで長編インタビューを掲載しているので、その希望があったのだ。「南相馬市まで(レイさんの)インタビューの取材に来てほしい」と。

震災から2年半ほど経過し、精神的に落ち着いてきたので、忘れないうちに自分の中の震災に関する記憶を話しておきたい、という。「3カ月後に行く」と即答した。そんなことでお役に立てるならお安い御用だと思った。

手紙には手作りの手芸品である、小さなウサギが同封されていた。レイさんが作ったという。

 しかし、しばらくすると、また手紙が来て「インタビューは私(レイさん)ではなく、仮設住宅(以下「カセツ」)に住む介護家族や高齢者の方々、自治会長の話を聞いてほしい。本間さんの著書を見せたところ、『カセツに泊っていいから一泊二日くらいで、ここの住人のインタビューをしてもらえないか』」と自治会長から話しがあったらしい。私は「了解」した。

そんなわけで南相馬市仮設住民の方へのインタビューをすることになったのだが、結論からいうと、このインタビュー取材は失敗に終わった。

南相馬に着いたものの


 カセツは6畳、4.5畳、ユニットバス、キッチン、トイレで一戸を構成し、それが26戸連なって、一つの集落を形成していた。

ある寝たきりのおばあさんの介護をしている世帯では大人3人で、その空間に住んでいた。

収納などもほとんどないため介護ベッドを置き、周辺にオムツの山を置き、医療機器を置くと、それだけで6畳の部屋は占拠されてしまっていた。

残りの4畳半に一人が寝、もう一人は「ベッドの脇の半畳ほどのスペースで寝起きするしかありません」とのことだった。

 東京などの都市部と違い、もともと地域的には木造の大型の戸建てに住んでいるのが珍しくない土地だ。それが、原発事故の影響で元の家に居続けることができなくなり、狭小な空間に閉じ込められるような日常生活に一変した。

 そのカセツ、「小池第二 応急仮設住宅」に住んでいたのは、多くが原発から半径20キロ圏内にある小高区の方々だった。

カセツを訪れるとレイさんの案内の元、自治会長のほか、多くの住民の方が「よくぞ来てくださいました」と出迎えてくださった。しかもレイさんは地元の地方新聞記者まで根回し呼んでおり、到着するや私にカメラが向けられた。

カセツ全体がとても温かい雰囲気で、その歓待の大きさは私に「しっかりとインタビューをしなければ」とますますプレッシャーを与えた。

 が、ほどなく、一通りのあいさつを済ませ、私が取材にかかろうとすると、あきらかにいつものインタビューとは勝手が違うことに気付いた。インタビューの対象者はあらかじめ自治会長が3人ほどリストアップしてくださっていたが、誰も自らの体験や想いをベラベラと語ろうとしないのだ。

こちらから質問すれば、それに対する答えは帰ってくるものの、話はすべて表面的な部分で終わってしまう。個人的な想いや感情、体験談を聞きたくて質問するのだが、そういう話はかわされてしまうのだった。

 なぜだろうと考えたが、明確な答えなど分るはずもない。ただ、私は自分の生まれ故郷を思いだしていた。そこはコンビニがないような山間部の集落で、狭い人間関係だけで動いている社会だった。「自我」や「個人的な見解」などはなじみにくい土地柄だった。自分の知見などをマスコミなどの「よそ者」にベラベラと開陳することは恥ずかしいことでもあり、そういうことをする者は軽率な人間とさえ見る向きもあった。ある意味、日本的な土俗性のようなものといってもよいかもしれない。私は、どこか、そんな空気を感じていた。



 そんなわけで、結局、一日目は大した話も聞けず、夜を迎えた。自治会長が「お酒はお好きですか。ささやかながら宴(うたげ)をしたいと思ってます」とおっしゃる。何も取材ができていないのに御馳走なんて肩身が狭いと感じた。だけど断るわけにもいかず、少しだけ御馳走になることにした。


 カセツの集会所に即席の宴会が設けられ地酒、刺身、肉などがならんだ。昼間、カセツ内がいかに「所有できない場所」であるかを見ていたので、その食卓を見たとき、「こうしたものを、この方々はどれくらいの頻度で食べられるのだろう」と思った。


もちろん、そう簡単に食べられるはずがなく、私の箸は進まなかった。

 さらに、その後、別のおばさんがすき焼きを持ってきてくれた。「家の残りもの」と言ったが、見れば鍋の中の野菜も肉も盛りだくさんで、一目で私のために作ってくれたのだと分った。そのあとには別のおじさんが「家族が今日、釣ってきた」とヒラメの刺身をさばいて持ってきてくれた。


「まだ、何もしていない自分をなぜ、ここまでもてなしてくれるのだろう。しかも、インタビューをしてほしいといったにも関わらず、多くを語るわけじゃない。一体、何が望みなんだ…?」と私は混乱した。

明日には帰らなければならないのに、何をすることが彼らの期待に応えることになるんだろう、と考えあぐねた。

◆内から見た外

 結局、一日目は特別に深い話も聞けず仮設集会所の布団に着くことになってしまった。一人で天井を見上げていると、昼間、レイさんと自治会長がそれぞれに、別の場面で口走っていたことを思い出した。


「…東京オリンピックでますます、ここは取り残されてしまう…」。丁度、その1週間ほど前に東京オリンピック開催のニュースが流れていた。それに二人は反応していた。

 ちなみに震災から2年半経過しても、南相馬は震災直後からほとんど何も変わっていない。未だに自動車がたんぼの真ん中に転がっており、倒壊しかかった住居が点在する。


人々が大切にしていた田んぼは荒れ放題で雑草が生い茂っている。
街に人影はなく依然、ゴーストタウン区域もあった。立ち入り制限区域では防護服姿の検問員もいた。
「この状況下で東京オリンピックに共感できるはずがない」と思った。

 取材の不調から、夜中になっても、なかなか寝付けずテレビのスイッチを付けた。チャンネルを回すと東京と同じ番組が流れていた。一つだけ南相馬独自のチャンネルを行政が設けており、放射線量の情報などを流していた。しかし、それ以外は皆、都会の人間が作った、都会の人間向けの放送ばかりだった。
芸能人が笑い、カラフルな商品の情報が洪水のごとく流れ、まるで別世界の平和なおとぎ話のようだった。

だが、そのカセツは正反対の荒廃した集落だった。周囲には山しかなく、ゴーストタウンに囲まれた場所だった。


「このテレビを見て、カセツの人達は何を感じているのだろう。自分たちの存在は無視されていると思ってしまうのではないか」と思った。そう考えると、昼間の彼らの「…東京オリンピックでますます、ここは取り残されてしまう…」という言葉も分かる気がした。



◆贈り物と夜勤
 一夜明け、二日目も大した話を聞けないまま時間は過ぎていった。帰る時間が近づいてきた頃、レイさんが「お土産です」といって、また自分で作った手芸品をくれた。それは何十個もあり「応援ありがとうございます! 南相馬市」と手書きメモが添えられていた。




他にもカセツのおばあちゃんが作った毛糸の手芸品、私の家族への土産、土地のお祭りを自家撮影したDVDなどなど、やはり贈り物の山だった。



ろくな取材をできなかった私の負い目は大きくなるばかりだった。

そして、ついに帰りのバスの時間になった。


レイさんとバスを待っていると、彼女が言った。

「震災後、ボランティアが沢山、来てくれました。でも、ボランティアにもいろんな人がいて、中には私たちの意向に沿っていないものもあります。そんなボランティアに対して、震災直後、私は一度、キレて、怒りをぶつけてしまったことがあります。

でも、そのボランティアさんは微笑みながら、ただ私の怒りを聞いてくれました。その顔は無精ひげが伸び放題で、お風呂も洗顔もできてない状況でボランティアにはげんでくれていることが分かりました。

ふと見ると、そのヒゲもじゃの胸に小さな手作りのかわいいマスコットが付いていました。他の地域のボランティア先で被災者からもらったのかもしれません。ヒゲもじゃに似つかわしくない程、かわいいマスコットでした。

それを見ていると何故か、私の怒りも収まりました。それ以来、私も喋るのは苦手だし、手芸品を作って、ここに来てくださった方々に贈るようになりました」。



帰りのバスの中で、私は特養ホームで夜勤をしていた頃のことを思い出していた。夜勤に入ると飴やせんべいなどのお菓子を内緒でくれようとするおばあさんいた。そんなものは私の給料で買おうと思えば、いつだって買えた。そんなものをもらった所で、こちらは特別なお返しをしてあげられるわけじゃないし、お返しをしないといけなくなるし、特別な関係になってしまう。そんな理由からモノを受け取らない職員もいた。


しかし、その時の上司は言った。「行動で何もお返しができない彼女(おばあさん)たちが、たった一つできうる事が、お菓子に気持ちを託して手渡すことでしょう。そのたった一つの行動を簡単に断ることは、それに込められた気持ちを無下(むげ)にすることであって、それほど冷たい仕打ちはないんじゃないのか」と。

以来、私たち職員は少しだけ、お菓子をもらうようになった。そして、モノには気持ちが込められていることを学んだ。

 それを思うと、この南相馬市で受けた様々なもてなしやご馳走、沢山のモノに込められた彼らの気持ちや想いは何だったのか。やはり、それは昨日のレイさんと自治会長の「…東京オリンピックでますます、ここは取り残されてしまう…」というつぶやきにあるように思われた。


「取り残されてしまう」という言葉の裏には「取り残さないでくれ」という切なる想いがあったに違いない。それに気づき、ようやく私は南相馬の声を聴くことができたと思った。

k.honma

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