2014/09/08

1/3 「受け入れること」から始まる仕事

「納得」のいく支援を求めて

東京都・澤田ルミ子さん(作業療法士)
特別養護老人ホーム勤務
(聞き手・本間清文-2014.6)

※本文は個人情報保護の観点から事実とは異なる箇所があります。
「受け入れること」から始まる仕事

今は特別養護老人ホームで作業療法士として勤めています。
作業療法士には「医療関係なら食いっぱぐれない」との母のアドバイスもあり、それに従いました。

育った環境は決して裕福ではなかったため、経済的な安定が大切だと共に感じていたからでした。

もっとも他に看護師や理学療法士という選択肢もありました。でも、私の個性的な性格などを知っていた母は看護師のように医師を忠実に堅実にサポートする仕事よりは、もう少し独自的な関わりができそうな仕事だ、というイメージを作業療法士に抱いており、それで薦めてくれたのだと思います。

 理学療法士という選択肢もありましたが、理学療法士のイメージは私にはリハビリの「先生」として患者さんと上下関係にあるような印象を抱いていました。でも、私はそうした上下関係よりも患者さんと何かを一緒にやるような、共同で取り組んだりしたかったので、そのイメージに近かった作業療法士を選びました。

 数ある作業療法士の職場でも、なぜ介護分野を選んだかというと、特に深い理由はありません。丁度、介護保険制度が始まる前後で、これから益々、介護分野の仕事は必要になるだろう、という程度のものでした。そして、もうかれこれ6年くらい介護の職場で作業療法士をしています。

利用者さんの心配事や不平不満や望みを知ったら、それを「受け入れること」が、私の最初の仕事だと考えています。利用者の気持ちを置き去りにしたままで、もしくは、こちらの恣意(しい)的な誘導でもって相手のリハビリ意欲を導いたり、訓練の方向へ駆り立てるのは、どこか支援者側の自己満足のような気がするからです。

以前は、骨折して寝込んでしまい、やる気を無くした男性にリハビリを促して歩行器で歩けるまでにサポートしたこともありました。『施設で死ぬの? 死ぬ時は家の畳で死のうよ!歩いて家に帰ろうよ』と嘘をついてリハビリに誘導していったのです。

ですが、その方は、結局、家には戻れませんでした。たとえ体が回復しても、家に帰るということには、その他にさまざまなハードルが立ちはだかります。施設は施設であり、家庭ではありません。リハビリといっても、どうしても制約や限界があります。その現実に対して利用者と同じ目線で立つことから、支援は始まるのではないかなと思うようになってきました。

ですから、今、私が心掛けていることは「待つ」ということです。こちらの都合や専門性を押し付けない。お年寄りが、自らトイレに行きたくなるのを待つ。歌を歌いたくなるのを待つ。そして、ご本人の気持ちが主体的に動いた時、必要な分だけ援助をする。
絶妙なタイミングで、的確な関わりが持てた時にやりがいを感じます。

そのために、私に出来ることは、相手のことを知ること、生い立ちや生活歴や考え、癖や、その人らしさを知ること。心配事や不平不満や望みを知ったら、それを受け入れ、サポートしていくのが私の仕事だと考えています。

 また、施設では、時に、お亡くなりになる方を看取ることもあります。
 看取り場面では、家族と一緒に私も(専門職としてではなく)一人のヒトに戻って、臨終を迎えます。医学用語は使いません。ご遺族とお年寄りにまつわる思い出話をして、家族に伝わる言葉で、お年寄りを送ります。

 時には、その方が好きだった民謡を一緒に唄ったり、足をさすったりと、一人ひとり違います。
 短歌を作るのが好きでいらした方には、若かりし頃の作品を詠んで差し上げました。おぼつかない詠み方だったとは思いますが、後日、それを見ていらした、ご遺族から「あの時は嬉しかったですよ」と声を掛けていただきました。今も心に残る思い出です。

面倒見のいい両親と祖母

今の私に大きく影響を与えたものの一つに、うちの家庭事情が関係していると思っています。
実家は東北地方なのですが、そこで母が祖母を温かく世話する姿を間近に見て育ちました。祖父は早く他界していましたが、祖母とは子供の頃から親しくしており、夏休みなど長い休暇の時には、そこで生活していました。

祖母の家には畑があり、祖母自ら、野菜を作っていました。そこで採れた野菜を、毎年、祖母はお漬物にして出してくれました。とてもおいしかった。今も記憶に深く刻みこまれ、今の私の原風景であるように感じています。

一方、母は姉兄も多く、祖母とは(嫁いだために)別居していました。しかし、祖母の介護や世話が必要になってくると、なぜか嫁いたはずの母は祖母から頼られ、あれこれと世話を焼いていました。通院や買い物などいろんな世話をしていました。

また、私の父も、母に劣らず面倒見がよい人で、やはり他所に住んでいる遠縁の親戚の人の看取りまで世話を焼くような人達でした。

裕福ではなかったけど、そんなふうに面倒見のいい両親を見て育ったので、「自分もいつかは親の面倒を見る」という感覚を当たり前のこととして抱いています。

 私が成人して、実家を出てからも、何かあると母から電話があり、祖母のことを聞いていました。


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